パイヤイヤイヤイヤン
もう一か月以上も前のことだけれども、どうしても書かなければいけないと思った。
渡辺麻友という存在が、芸能界から去ったということ。
今更ではあるけれど、いろいろ考えた今だからこそ言葉にして残しておかなければという思いが今熟してしまった。
渡辺麻友は本当に自分にとって難しい存在だった。
人間的であるということをこれでもかと発露させることで人々を飲み込んでいったAKB48という現象の中でも一際異質だったと思う。
感情を見せず、無機質さすら感じてしまうその姿にはある意味で自分にとって恐怖の対象だった。
人間的であることをこれでもかと露わに、むき出しにすることが真に人間的であると、あの頃の自分はそう思っていた。
思わされていた。
麻痺していた。
麻痺させるだけの巨大なものがあのときのAKB48にはあった。
だからこそ渡辺麻友は異質な存在だと自分の目には映ってしまっていた。
人間的であるということを勝手に自分の中で独りよがりに規定しまっていた人間に、渡辺麻友という存在は飲み込めなかった。
感情をむき出しにすることは人々を刺激し、共感を生みやすい。
(もちろんそのぶんだけ反感を買いやすいものでもある。)
その刺激と共感が限界まで膨れ上がったのが選抜総選挙というイベントだった。
膨れ上がりすぎて破裂してしまったので、2018年を最後に行われていない。
その膨れ上がる途中の2014年に1位をとった渡辺麻友に与えられた曲が、
「心のプラカード」。
前年に生まれてしまった「恋するフォーチュンクッキー」という異常なるモンスターのせいで、不運なくらいに影が薄い。
PVも「恋するフォーチュンクッキー」の二匹目のどじょうを狙ったようなマーケティング丸出しのもので、ある意味で曲の本質をぐちゃぐちゃに塗りつぶしてしまっている。
はっきり言ってしまって名曲である。
当時から名曲だとは思っていたけれど、最近さらに名曲だと思うようになった。
ものすごくパーソナルなものであると思う。
秋元康には、選抜総選挙1位をとってもなお渡辺麻友という存在が掴めなかったのだ。
SOSと同時にギブアップ宣言でもあるように思える。
渡辺麻友がAKB48を卒業するにあたり、最後に選抜としてセンターとして発表された曲が「11月のアンクレット」である。
歌詞の内容的には、渡辺麻友がセンターである必要性などまったくない曲であるが、個人的には2010年代のJ-POPで5本の指にはいるくらいの名曲だと思う。
秋元康得意の「男という生物の矮小さ」むき出しの曲をなぜ渡辺麻友の卒業シングルにしたのか。
3年近く考えたけれど、結局一つもわからないまま、彼女は芸能界を引退してしまった。
言語化したくてもできないし、わからない。
ある意味では人間の感情の極だと思う。
言語化出来て、理解ができるものばかりじゃつまらない。
そのことを渡辺麻友は自分に教えてくれたように思う。
今になって渡辺麻友という存在が自分の中で輝きを増してきている。
渡辺麻友という存在がこれからも語り継がれること、そして彼女のこれからの人生が幸福であることを心より祈るばかりである。