「推す」というその状態
「推し、燃ゆ」を読んだ。
SNSでまわってきた冒頭の文章に興味を惹かれ購入し、一気に読んだ。
骨太でゴツゴツとして、それでいて何かの拍子に全てが崩壊してしまうような危うさがあった。
とにかくこの作品をどのように捉えるかは、「推す」という状態に陥った経験があるかどうか、皮膚感覚として「推す」という状態がどのようなことかを理解しているかどうかで変わってくると思う。
「推す」というのは「行為」や「感情」ではなく「状態」なのだ。
「この人の素晴らしさがもっと多くの人に伝わらなければいけない」という使命感に駆られ、その必要があれば金を惜しまない。
エスカレートすると、「この人の素晴らしさがわからない世間や社会はセンスがない、おしまいだ」という独りよがりな攻撃性に変わり、その攻撃性がさらに金へと変換されていく。
ある意味それは社会への反抗である。
金で既存のシステムを変えられる可能性があるなら、金を使えばいい。
そこに性的な感情は介在しない。
「とにかくこの人の魅力に気付く人間が一人でも多くなればいい。」
その一心だ。
それが「推す」という状態そのものだ。
読んでいる最中、主人公あかりが「推す」アイドル、上野真幸のことを、僕はいつまにか「推し」ていた。
作中の同性アイドルを。
投票結果イベントのシーン、インスタライブのシーン、泣いてしまった。
「なんでこうなってしまったんだ。」
社会を恨んだ。
推しをこうしてしまった社会そのものを憎んだ。
この作品は、主人公あかりを通し、読者を上野真幸というアイドルを「推す」状態に陥らせてしまう。
そして、その状態を賛美することも、否定することもない。
ただただその状態そのものへの愛と寄り添いがある。
作者の一作目、「かか」も読もうと思う。